英語が話せる!使える!という自分定義のレベルを考えてみる
「英語が話せる・使える」とは自分のなかでどういう定義になっていますか?
言葉そのままの意味で、英語をただ単純に”話せる”・”使える”だけの定義と捉えているひとはあまりいないのではないでしょうか。大抵の場合、
- 英語が話せる=ネイティブレベル
- 英語が話せる=詰まらずスラスラ話せる
- 英語が話せる=発音がキレイ
と無意識に定義付けていないでしょうか。実際に英語が勉強するサイトを見てみると、同じようなことが定義付けされています。
「英語ができる人・使える人 定義」
と検索してみてください。いろんな人の意見や口コミが見れるかと思います。
はっきり言って、日本人の謙遜の美徳がそう思わせるのか・・・英語ができる人・使えう人というのは、母国語レベルで英語を使える人と同義であると捉えている人が多いようです。でもその考え方は、英語を習得するにはじゃまな考えかもしれません。
ハードルが高すぎるから足踏みしている事実
この意識の高さゆえ、英語を崇高な追求するための学問ととらえてしまい、習得が難しいものと勝手に思い込んでいる日本人がほとんどです。実際、私もその一人でした。
英語ができるために!!!使えるようになるために!!
と思えば思うほど、話しているときにでも『あれ?これって自動詞?他動詞?ん?前置詞っているかな?・・・・あっ、ええ〜っと・・・・I discuss about…. ???? 。』あ〜やっぱり使えない・英語って難しい
考えをあらためる叔母のイギリスでの出来事
そんなことを思っていた私ですが、アメリカの大学院を卒業し、英語もある程度できるようになったころ、伯母と旅行したときのことです。
叔母が海外旅行をするということで、一緒に通訳てきな感じでついて来てほしいと言われ1週間ほどイギリスについていきました。叔母の英語力は一般的にいって、カタコトというよりもしゃべれないというレベルです。
そんな叔母の短所ともいえる長所がありました。それは、何事にもチャレンジし物怖じしないという点です。
とあるデパートで英語がわからないながらも店員さんにカタコトで一生懸命物事を伝えようとする叔母がいました。その叔母に対して店員も、理解し結果通じあって仲良くなっている二人がそこにはいました。
自分の伝えたいという思いが大事
その時は叔母の長所を羨ましくおもい、『伝わらなかったらどうしようとか、恥ずかしいとか思わないんだね?その性格がうらやましい!』と思わず行っていました。すると、叔母はこう答えました、
『え〜だって普通に気になったものが欲しかったからね!店員さんに探してもらっただけだよ』
そう、つまり叔母は英語を自分の伝えたい気持ちをストレートに相手に本気でぶつかっただけなのです。その結果が相手に伝わり、自分の欲しかった洋服と靴を買うことができたのです。英語は自分が相手に対して伝えたいことを伝えるための手段であるということなのです。
英語はもっと身近で使える・使うものだという事実
このことで、あらためて英語ができる人・使える人の定義というものが私の中で変化しました。それは、
英語ができる人、話せる人=
英語を使って、自分の伝えたいことを相手に伝えられること
ということです。もちろん人それぞれ価値観は違うので、一概にこの定義を押し付ける気はありませんが、このような定義で英語を学ぶともっと気楽に、そして身近な感じがするのではないでしょうか。
よく英語の習得を難しくしているのは、日本の島国である特殊な英語環境とよく言われますが、このような英語に対しての無意識的な意識を含めて英語を学ぶ環境が原因であるように感じます。
まずは自分の中の「英語ができる・使える」という定義レベルを、下げてみるのはどうでしょう。だって英語ってツールなんですよ。結局のところ、「英語ができるとい定義」を「スマホが使えるという定義」と同じ位置付けにするのはどうでしょう。
きっと英語といういままで崇高な学問であったものが、身近に感じられ手軽なものになるはずです。